作品
第1話:癒えない傷に
「……元気で」
そう言ってあいつは、微笑って消えた。
あの時の顔は、きっと一生忘れない。
黄金色の目も、癖のある髪も、柔らかい声も……優しく抱いてくれたあの腕も。
全てが俺の中に刻まれているのだから。
***
――俺には出来ない……。
世界の中枢。俺たちを縛り付けていた銀の紐。
それを引き千切ることは黒鷹を消すことになるのだと。
そう聞いてしまっては出来るわけなんかなかった。
――……玄冬。君は、あの子供を救いたいのだろう?
その気持ちに間違いはなかった。救いたかった。だけど。
――だが、お前を消す事だって出来ない!
どれほど、お前が俺を慈しんで、愛してくれたか知っている。
指が優しく触れて、声が甘く囁いて。
幾度も幾度も触れ合った体温。
覚えている熱の感触。
何もかもが、俺の中に刻まれてる愛しい記憶。
黒鷹の存在がどれほどの支えになったことだろう。
誰より傍にいてくれた、俺の鳥。
どうして失うことなんて、選べただろうか。
――……仕方無いね。
決して責める口調ではなく。
ただ、本当にいつものように何気ない動作で。
……あっさりと黒鷹の手によって、千切れた紐に一瞬、頭の中が真っ白になった。
――ほら、こんなに簡単に千切れるんだよ。呆気無いものだろう?
そう言った口調もいつもと何も変わらなかった。
……その存在が無くなるというのに。
――そんな顔をするんじゃないよ。しっかりしなさい。あの子供を止めに行くんだろう?
両頬に手を当てて、額を合わせて。
諭すような言葉は『親』としての慈しみが籠められていた。
――……すまない。俺は……
泣いてしまいたかった。
そんなことは黒鷹は望んでいないのだと、必死で自分に言い聞かせた。
……なのに。
――いいよ、謝らなくて。謝るのは私の方だ。
優しいぬくもりに抱きしめられて、声が出せなかった。
どうして、そんな言葉を言うのだろう。
お前こそ、何を謝ることがあったと?
――うーん、色々言いたい事もあった気がするんだが、忘れてしまったな。
――……まあ、いいか。何を言っても、今更だ。
――……黒鷹。
名前だけをようやく呼んで。でも、他に何も言えなかった。
――……じゃあ、玄冬。
額に落とされた口付けはどこまでも優しかった。最後の……キス。
――……元気で。
最後に見た顔は、微笑っていた。
どこまでも穏やかに、愛しさを秘めて。
俺は……あの時に迷ってしまってはいけなかった。
黒鷹にやらせてしまってはいけなかった。
あの迷いがあったから、結局、間に合わなかった。
花白を救ってはやれなかった。
どうしたら、償えるだろうかと。
花白に、亡くなった者たちに。
……黒鷹に。
――間違っても死んで償おうなどとは思うなよ。死ぬ価値が無いものは、
――死んだって償いになどならん。……償えると思う方が、おこがましいんだ。
彩の王宮に駆けつけたときに、銀の髪の男にそう言われた。
満身創痍でありながら、その水色の目はただ、前をまっすぐに見据えていた。
――もう、誰が死ぬとかそういうのは沢山だ。少しでも俺に悪いと思うなら、その命、無駄にするな。
凄い。と本当に思った。
出来る事をしようとしているだけだと言っても、言うは易く、行うは難い。
だが、迷いの微塵も感じさせない凛とした態度は信用ができると思った。
きっと、言ったことを違えはしないのだと。
国を再建させる為になら、何も惜しまないだろう。
生き抜こうという高潔な意思。
行く末を見届けてみたいと。傍にいれば出来る事もあるだろうと。
だから生きようと思った。花白や黒鷹が望んでいたように。
***
「……ここに戻ってまで仕事か。おとなしく休んだらどうだ?」
「……余計な世話だ。貴様こそ何をしている」
書類に目を通していたら、部屋の扉が控えめに叩かれて。
入室を促したら、紅茶を手にした玄冬に呆れた声で言われた。
「飲みたくなったから、淹れたんだが……あんたの部屋に灯りがついてたんでな。
ついでにどうかと思って持ってきたんだが」
「……貰おう」
玄冬の手から、マグカップを受け取って紅茶を喉に流し込む。
香りも味も申し分ない。
こいつを家に招いてから一月近くが経っていたが、何度となく淹れて貰った茶は、今まで知る他の誰が淹れたものより美味かった。
茶だけではない、食事を作るのも得意で、妹たちなどは時間を見つけては奴に色々と教わっているらしい。
どうやら、すっかり懐いているようだった。
妹たちだけではない。
両親や、城の連中などにしても、突然現れた存在であるはずの玄冬に、当初でこそ戸惑いがあったにせよ、今やすっかり信頼を寄せているように思われた。
生真面目で温和。
責任感があり、きちんと与えられた仕事はこなす。
そういう面が周囲の人々の信用を得たのだろう。
そんなところを知るとますます、こいつが『玄冬』だったというのが信じ難い。
花白が「殺したくない」と言っていた気持ちも、今なら少しはわかる気がする。
「美味い」
「それは良かった」
「前から思っていたが、随分と手馴れているな。こういう事に」
「……ウチには二人しかいなかったからな。
あいつがやらなければ、俺がやるしかなかったから、必然的に慣れただけだ」
僅かな間の沈黙と伏せられた目にしまったと思ったが、遅かった。
一月前の出来事は、まだ記憶の中に生々しく残っている。
なるべく、思い起こさせるようなことには互いに触れずに来たのに。
「……すまん」
「謝ることはない。
俺は先に休ませてもらうが……明日もあるのだから、仕事はほどほどにしておけ」
「ああ……」
扉が閉まり、遠のいていく足音につい溜息をついた。
まだ、話せない。
あいつの養い親だったという黒の鳥のことも、花白のことも。
目を背けたままではいけないと思うが、今はまだできなかった。
……未だ鮮やかに残る記憶は痛みを伴う。
それはきっとあいつも同じだろう。
いや、厚い信頼を寄せていた二人を。
特別な存在であった者達を同時に失くしたのだから、玄冬の方が辛いはずだ。
比べるのも愚かな話だし、失くした者たちを軽んじているわけではないが、俺は一番近しい者達……家族を失ってはいない。
「……難しいな」
空になったマグカップを前に、再び溜息が漏れた。
- 2008/01/01 (火) 00:01
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