作品
酒は飲んでも……
「…………よく飲むな」
玄冬が、俺の家に間借りするような形で住み、俺の仕事の補佐を務め始めてから半年程経つ。
あの一連の出来事の後処理で慌しかった日々に、ようやく少し余裕が見えてきた頃、ふと、偶には玄冬と二人で酒を酌み交わしてみるのもいいかと思い、先日、休日前夜にでもどうかと誘いをかけてみた。
まだ、共に飲んだ事は無かったし、こいつが酔ったらどうなるのかという、単純な興味もあったのだ。
玄冬はそれに二つ返事で承諾し、今こうして俺の部屋で飲んでいる訳だが……こいつはまるで、水か茶でも飲むかのようなペースで、淡々と飲み続けている。
顔色一つ変わっていない。
何となく酒には強そうだと思ってはいたが、予想以上だった。
玄冬が自分で作った果実酒と、俺が持ってきた部下からの頂き物の酒の二瓶がテーブルの上にあり、どちらも中身は五分の四以上減っているが、大半は玄冬が飲んで減らした結果。
俺はどちらもグラス二杯ずつ飲んだぐらいだったはずだ。
今、俺のグラスに入っている酒も、まだ半分以上残っている。
一方、玄冬はと言えば、再びグラスが空になり、今まさに俺が持って来た方の酒に手を伸ばそうとしているところだった。
手酌で飲もうとしたのを制して、やつのグラスに酒を注ぐ。
玄冬の方はこれで何杯目だったのか、もう正直覚えていない。
「すまん」
「いや……」
酒を注ぎながら玄冬の様子を窺うも、素面の時と何ら変わりないように見える。
周囲の人間だと、文官なんかもかなり飲めるクチだが、あいつは顔には結構出て、真っ赤になるから一目で酒を飲んでいる事が解る。
しかし玄冬は……飲んでいるのが、実は酒ではなく水や茶なんだと言われれば、そこで納得してしまうだろう程に、目元一つ赤くなっていない。
これだけ酒を飲んでいて反応一つ示さないやつも珍しいのではなかろうか。
「ん? 何か俺の顔についているか?」
さりげなく様子を窺っていたつもりが、いつの間にかじっくりと相手を見てしまっていたらしい。
玄冬が訝しげに訊ねて来た言葉に、慌てて首を振った。
笑いを堪えているように見えるのは気の所為か。
妙に気まずい空気を誤魔化す様に、軽く咳払いをして、自分のグラスにも酒を追加する。
「隊長」
「何だ」
「それ、あんたのグラスに入っていた酒とは違うんだが、混ぜてしまっていいのか」
「……む」
しまった。ついうっかりやってしまった。
グラスの中で混じり合った酒が何とも言えない色に変わってしまったのを見て、今度こそ堪え切れなかったらしく、玄冬は笑いを零した。
ええい、くそ。面白くない。
半ば自棄でグラスの酒を一気に呷ると、今度は玄冬が空になった俺のグラスに氷を足した後、果実酒を注いでくれる。
笑みを湛えたままの相手の表情がどうにも癪だ。
舌打ちしてしまいたい気分だが、流石にそれは抑え込んで、代わりに様子を訊ねてみる。
「貴様、まだ酔っていないのか。
もう、結構な量を飲んだように思うんだが」
「ああ、酔っていない。
というより、俺はそもそも酔った経験がないんだ。今までに一度も」
「…………何だと?」
思わず、自分のグラスを持とうとしていた手が止まる。
一度も? 酔った事がないだと?
「『玄冬』として持ち合わせていた高い治癒能力からか、元々、酒に強く酔わない体質だったのか……まぁ、今はもう『玄冬』ではなくなった事を考えると、結局は後者だったんだろうが。
酔うという感覚がさっぱり解らん。
いくら酒を飲んでも、俺には水や茶と変わらんようにしか感じられなくてな。
味が解らないという訳ではないんだが」
どうやら、目の前の相手は酒に強いどころではなかったようだ。
思わず溜息を吐き、椅子の背に寄りかかる。
「…………所謂ザル……いや、ワクというやつか」
「そうらしい。
俺が初めて酒を飲んだ時、黒鷹は俺が酔った姿が見たかったのにと、かなりがっかりしていたな」
「まぁ……そうだろうな」
少しだけ、黒の鳥の気持ちが解る気はする。
俺も玄冬が酔うとどうなるか見てみたかった部分があるし、僅かだが下心もなかったわけじゃないからだ。
それに、互いに酔うならともかく、二人で飲んでいるのに相手が素面同然だというのは、どうしても少し気兼ねしてしまう。
俺自身はあまり酒に強くない自覚もあるから、尚更かもしれん。
「それでも黒鷹相手だと、酔い潰れたあいつを介抱するのが俺しかいなかったから、酔わない事は逆に有り難かったくらいだが……実は、俺も今少しがっかりしている」
「うん?」
玄冬が自分のグラスを軽く揺らすと、カランとグラスの中の氷が鳴った。
それが妙に頭に響く。
「酒に強いのが、『玄冬』としての高い治癒能力から来ていたものだったのなら、今日は初めて酒に酔えるかも知れないと少し期待していたからな」
「なるほど。それは黒の鳥にも見せることのなかったお前が酔うところを、俺には見せても構わなかったと自惚れてもいいわけか」
自分としては、ほんの軽口のつもりでそう言ったつもりだった。
微かに浮かべた寂しそうな表情を掻き消してやる目論みで。
が、玄冬はといえば。
目を見開いて、驚きの表情を露にしている。
そんなに妙な事を口走っただろうか、俺は。
「……そうか、そういう捉え方も確かにある、か」
「おい、玄冬?」
「そうだな、自惚れるに足りると思うぞ。
確かに黒鷹相手に酔ったところを見せたいとは、今まで考えもしなか……」
「貴様はいつも二言目には黒の鳥を出すな」
「ぎ……」
俺は席を立ち、言葉を続けようとした玄冬の唇を自分のそれで塞ぐ。
自惚れるに足りると言った時の、柔らかくなった表情と、少しだけ甘さの混じった声を聞けたのは気分が良かったが、黒の鳥の名前を聞くのはもう十分だった。
唇をこじ開け、戸惑う舌を捕らえ、強く吸う。
同じ酒の匂いが麻痺して感じられなくなった段階で、ようやく唇を離すと、玄冬の目元がほんのり紅く染まっていて、ようやく溜飲が下がる思いがした。
「ふん、貴様を酔わせるには酒よりこっちの方が効果的らしいな」
酒には酔わない癖に、口付け一つでこうなるとはな。
「……ちょっと待て。
あんた……もしかして、今とんでもなく酔っているのか?」
「酔ってなんかいない。
大体、貴様がやたらに黒の鳥の名前を出すから悪い」
「んっ……」
再度の口付けは軽く唇を触れ合わすに留め、まだ椅子に腰掛けたままの玄冬の手を引いて、寝台へと促した。
焦れた気分が、もしかしたら必要以上に引いた手に力を籠めていたのかも知れない。
玄冬の眉が軽く顰められたのが目に入る。
だからと言って、もう後に引くつもりは全く無かった。
寧ろ、困惑するような表情に、気分が後押しされたと言ってもいい。
「来い。自惚れるに足りるというなら、それを証明しろ」
「…………何とも……性質が悪いな」
ぽつりと呟かれた言葉は聞き流せなかった。
「何か言ったか」
「空耳だ。気にするな」
「いーや、言っただろう。
大体! 酒に酔わんということは、酒の楽しみを知らんと言う事に等しい。
全くもってけしからん。性質が悪いのは貴様の方だ!」
「……そうだな」
困ったような表情を浮かべながらも、どこか嬉しさが滲んだ声に聞こえたのは、それこそ自惚れだろうか。
それでも、治まらない不満をぼやきつつ、相手を組み敷いた後に覚えていたのは――完全には消えないままの酒の匂いと、全身で感じた灼熱感だった。
***
「ん……?」
眩い朝日が顔に当たるのを感じて、目が覚める。
光の方向に顔を向けると、カーテンを開けかけている玄冬と目が合った。
「あ……悪い。起こしたか。気分はどうだ?」
「気分……? っ……」
身体を起こしかけた瞬間、頭に響いた痛みに思わず呻くと、玄冬の笑い声が聞こえた。
「二日酔いか」
「悪かったな。って…………ん?」
そこでようやく、自分が何一つ身につけていない状態で眠っていた事に気付く。
肌に直に感じる上掛けの感触に戸惑っていると、玄冬が軽く溜息を吐きながら、寝台に腰掛けてきた。
玄冬の方も素肌に直接羽織っているガウン以外は、何も身につけていないらしい。
この倦怠感は二日酔いの所為だけではないという事か……?
しかし、記憶が……。
「あんた、昨夜の事は何処まで覚えている」
「う……その……」
寝起きの所為もあって、あやふやな記憶を何とか辿っていくが、玄冬が過去に酔った事がない、と言った辺りから自信がない。
「お前が今までに酒に酔った経験がない、というのは覚えているん……だが」
「その後は?」
「ううむ……」
後の記憶は――断片的だ。
黒の鳥の事を癪に感じた事や、酒に酔わずにすましたままの玄冬に対して面白くなく思ったような覚えはある。
いや、脳が正確に思い出すことを拒否しているのかも知れない。
おそらくは大人げない発言をしたような気がする。
気がする、で留まってくれればいいんだが。
「何だ、覚えていないのか」
「……すまん」
己の行動に確証が持てないというのは恐ろしい。
俺は何をやらかしたのか。
「銀朱」
「ん?」
「あんたに一つ忠告しておく。外では深酒しない方がいい。
いや、するな。少なくとも俺もその場に居る時は」
「………………俺は何をした?」
苦笑交じりの表情を浮かべた玄冬に、恐る恐る問いかけるも望む答えは得られない。
「あんたの身体に聞いてみるんだな。
とりあえず、俺は休日前以外にはあんたと飲まない事に決めた。
こっちの身がもたんからな」
「だから、俺は何をした!?」
上半身を勢いよく起こしながら上げた自分の声は、ほとんど悲鳴のようだったかも知れない。
そんな自分の声と一気に身体を起こした事で、また頭に軋む痛みを覚えつつ――思い出したくなかった事をうっかり思い出してしまった。
「言ったろう。あんたの身体に聞いてみろ、と。
でも、あんたと飲むのは中々面白かった」
――案外、可愛い嫉妬の仕方をするんだな、あんたは。嫉妬する相手はもう居ないのに。馬鹿だな。
そんな台詞をこいつに言わせてしまった事を。
それを言わせるまでに、俺はどんな事を口走ったのか。
考えたくもない。自己嫌悪で酔いも醒める勢いだ。
こいつの事は黒の鳥への想いごと受け止めようと、自分にそう誓ったのに。
「だが、今後飲む時は二瓶ではなく、一瓶にした方がいいとは思うけどな」
聞こえてきた呟きには全面的に同意する。
自分の許容範囲は、やはり踏まえておかねばなるまい。
が、そんな今後の酒盛りについてはさておき、今は――。
玄冬の手首を掴み、縋る様な気分で問い掛けた。
「……今から昨晩の一部やり直し、というのはありか?」
無論、一部とは酒盛りの事ではない。
勝手な言い分かも知れないが、目の前の相手が欲しかった。
酔いに任せた勢いではなく、玄冬自身をしっかりと確認したい。
酔いの最中での事だから、気にしないと玄冬は言うかもしれんが、自分の感情にだけ委ねてしまっただろう結果の行為など、いい気分はしなかったはずだ。
また、下世話な話……行為そのものは碌に覚えていない癖に、下手に灼熱感だけは蘇ってしまったものだから、どうにも感覚が燻って仕方が無い。指先に感じる熱だけでは物足りないと訴えかけてくる。
情けない自覚はあるが、どうにもならなかった。
「あんたの二日酔いさえ大丈夫なら、あり、だな」
が、幸いにも玄冬には拒まれず、密かに安堵しながら腕を伸ばし、唇を重ねた。
その拍子に微かに漂った昨晩の酒の匂いに、少しだけ苦く思う。
「すまんな」
色々な意味を籠めて、呟いた言葉の意図を汲んでくれたのか、どうなのか。
穏やかな笑みからは読み取れない。
まったく……酒は飲んでも飲まれるな、とはよく言ったものだな。
そんな事を意識の片隅で思いながら、俺は腕の中に収まった相手に集中し始めた。
2006or2007/?/? 銀朱*玄冬アンソロジー寄稿
今アンソロジーが確認出来ないのですが、2006年か2007年発行の銀玄アンソロジーに寄稿分……のはず。
ファイル見つけて、久々に読み返したら、この玄冬視点を書きたくなりましたw
余裕が出来たらそのうち書くかも。
- 2008/02/01 (金) 00:30
- 番外編
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