作品
理不尽さえも甘い誘惑の
「はい、淹れたよ。どうぞ」
目の前に軽く音を立てて、茶の入ったティーカップが置かれる。
茶を淹れるのが趣味なんだとおっしゃるので、灰名様が我が家にいらっしゃる時は大抵この方が淹れて下さる。
それに緊張を覚えたのは最初の頃だけだ。
よく、茶葉も分けて頂くのだが、うっかり城でそれを口にして茶を出すと第三兵団の方々が一気に緊張するのを見て、ああ、またやってしまったかとも思うのだが……つくづく慣れとは恐ろしい。
この状態をそのまま言ったら、卒倒される方さえいそうなのに。
「ああ、有り難うございます。
……あれ? もしかして新しい茶葉でも持っていらしたので?
覚えのない香りが……」
「わかってくれて嬉しいよ。貰い物なんだが、良い香りだろう?
昨日は娘に持参させて、陛下の所にも差し入れをさせて頂いたものなんだ。君にもぜひと思ってね」
「それは嬉しいですね。有り難く頂いておきます。
確かに昨日、姫様とご一緒にいらしたお嬢様方にお会いいたしましたよ。
いらっしゃってたのはその為でしたか。
お二人ともまたお美しくなられましたね。
そろそろ縁談のお話なんかも入ってきているのではないですか?」
特に上のお嬢様は年齢を考えてもおかしくはない。
だから、何気なく会話に出しただけの言葉だったのだが、ごく一瞬だけ、ぴくりと眉が動いた気がした。
……もしかして。
珍しく動揺していらっしゃるのだろうか。この方が。
「……そうだな。一応、条件は出してあるけどね」
「そりゃあ、灰名様の家は初代救世主直系で王家とも縁の深い、彩屈指の名家でいらっしゃいますからね。
無い方がおかしいとは思いますが……条件とは?」
「私を剣で負かせることが出来た者になら、縁談を組んでも良いと言ってある」
見るものが見れば、ごく普通の口調、いつも通りの笑顔に見えただろう。
あくまでも笑顔を崩してはいらっしゃらない。
しかし、空気が。
周囲を凍りつかせてもおかしくないほどに冷ややかだ。
この方を前にして緊張したのは久しぶりかも知れない。
縁談の話を振った事を後悔したところで遅いが、いきなりの話題転換をした所で、かえって不自然過ぎる。
しばしの気まずい沈黙を深呼吸で遮った。
「……灰名様」
「うん?」
「もしかして、いや、もしかしなくても。
お嬢様方をお嫁に出す気がありませんね?」
本気でそうだとしか思えない。
「いや? そんなことはないよ。言ったじゃないか。
私を剣で負かせる事が出来た者ならって。
可愛い娘達を委ねることになるんだ。そのくらい強い相手でないとね」
「……第一線を退いていらっしゃるとはいえ、かつて国一の剣の腕前と謳われた貴方に敵う相手が彩に、いえ、世界にどれだけ存在しているとお思いですか……?」
『彩の銀狼』は今では銀朱隊長の異名として広まっているが、元々は灰名様の異名だ。
普段は穏やかな容貌のこの方は、剣を扱うと雰囲気ががらりと変わる。
輝く銀の髪を靡かせ、鋭く素早く剣を振るうその姿はまさに銀狼の名に相応しい。
体力がないから、持久戦には向かない、とご本人はおっしゃるが、持久戦を強いられる状況になることがまずないのだから、持久戦について配慮する意味も無い。
銀朱隊長にしても、自分は父の腕にはまだ遠く及ばないと日々おっしゃっている。
だからこそ『彩の銀狼』の異名を呼ばれることに銀朱隊長は複雑な感情をお持ちのようだし。
そんな灰名様をお相手に剣の勝負を挑む猛者が果たしてどれだけいるというのだろう。
いや、剣に限ったことではない。
何でもそつなくこなすこの方相手に勝負事を出されるという時点で相手には相当な重圧となるだろう。
「贅沢なことを言っているかな」
「ええ、間違いなく」
このご様子では本格的に縁談が持ち込まれた時は大変だろうな。
そういえば、昔から結構ご家族の話をされていたことを考えても、ご家族思いでいらっしゃるのだろう。
家柄のこともあり、奥方様とは政略結婚だったそうだが、今でも彩の社交界で噂になるほどに仲睦まじいご夫婦だと伺っている。
「……羨ましいですね」
「うん? 何だい、急に」
「仲の良さそうなご家族で……まぁ他にも色々あるんですが、羨ましいと思ったんです。お子様方も可愛がっておいでですし」
嫌味などではなく、本当にそう思う。
灰名様は誰に対してもお優しい方で、それはそのまま灰名様のご家族にも言える。
理想的な家族、というのはこういうのを言うのかも知れない。
お身体がご丈夫ではないことを差し引いても、これだけのものに満たされている方はそうはいない。
「そりゃあ、子ども達は可愛いさ。
……結婚してから数年は全く子どもに恵まれなくて、少し諦めてさえいたんだ。
やっと授かったと思ったら最終的には三人に恵まれた。
嬉しかったね、あれは。どの子もそれぞれに可愛くて仕方ないよ。
皆良い子に育ってくれた、手離したくないと思っても仕方ないじゃないか」
「少しばかり妬けますね。私はまだ家庭を持っていないのでわかりませんが」
「君は持たなくていいよ」
「……はい? 今、何と?」
あまりにさらりと間髪いれず返された言葉の意味が理解できずに、つい聞き返す。
「君は家庭を持たなくてもいい、と言ったんだ。
だって、君が家庭を持ってしまったら、私がこうして遊びに来られなくなるじゃないか。
どうしたって、家族が出来たら今までのようには行かなくなるだろう?
せっかくの居場所を失いたくないな」
「……ご自分で勝手なことを言っておいでなのは、わかっていらっしゃいますよ、ね?」
「ああ」
認めてはいらっしゃるものの、発言を撤回なさる気はないらしい。
……そういえば。
何となく思い出したことがある。
当時は単に偶然が続いたのだと思っていたが、あれはもしかして。
「灰名様」
「うん?」
「……過去に二、三度。私に縁談の話が上がったことがあるのですが。
何故か、どれも理由がついて、いつの間にやら立ち消えになったんですよね。
お相手の方とお会いする前の段階で。……まさか、貴方の差し金ですか」
「……さぁ? 何のことやら」
一瞬の間で直感は真実だったことを確信した。
相手も知らなかった段階での話なので、未練も何もあったわけではないが、理不尽さを感じない、と言えば嘘になる。
「我が儘な方ですねぇ」
「知っているだろう?」
「……そんな我が儘なお方にそうと解っていて付き合っていられるのは私くらいのものですね。
褒められてもバチは当たらない気がしてきました」
「ああ、うん。偉い、偉い」
「物凄く投げやりに聞こえるのは気の所為ですか」
「ははは、それは済まない。拗ねないでくれ。
でも付き合って貰って感謝しているのは本当だよ。
まぁ、付き合って貰える相手は君一人で十分だとも言えるけども」
どうして、こう。
この方はさらりと爆弾発言を落とされるんだろうか。
「……そういう言い方は狡いですよ」
お蔭で、理不尽を思う前に幸福を感じてしまって、うやむやのうちに引っ掛かっていた部分は掻き消されてしまう。
「狡いかな」
「ええ。……もっとも、そんな貴方も好きですが」
確かに色々なものに満たされていらっしゃる方だけど、だからこそ望んで叶うもの、というのは案外少ないのかも知れない。
その上で私を望んで下さるというのは、自惚れてもいいのだろう。
どの方にも分け隔てなくお優しい方だけど、どの方にも我が儘を言う方ではないのだから。
「私もだ。意見が合って何よりだね」
「まったくです」
結局こうやって笑い合って済まされてしまう辺りが、どうしたってこの方に敵わない部分なのだが、それでいいと思うのも確かだ。
「お茶、もう一杯どうだい?」
「はい。頂きます」
軍を退役された灰名様に、今でもこうしてお茶を淹れて頂ける人はご家族を除くと他にそうはいないでしょうから、ね。
2006/11/05 発行
個人誌『白銀の地に落ちるは柔らかな日差し』から。
ほとんど手は加えてません。灰文。
基本的に人間が出来ている灰名様ですが、ごく一部の入れ込んだ相手には意外に我が儘だったりするといい……!
- 2009/01/01 (木) 00:07
- 灰文