作品
望みは追憶の果てに
「休暇が欲しい、だと?」
俺の言葉に目の前で書類を読んでいた銀朱の表情が険しくなる。
「一ヶ月ほどでいい」
「ほどでいいって……あっさり言ってくれるな。
一ヶ月となるとかなり長い期間だぞ。
二、三日の休暇とは訳が違う。
そんな時間を使ってまで、一体何をするつもりなんだ?」
「群に……俺が育った場所に少し帰りたいと思っている」
書類を捲っていた手がぴたりと止まり、ずっと紙の上から離れなかった視線が初めて俺の方に向けられた。
水色の瞳は心なしか困惑の色を浮かべている。
「……もう、お前がいた家は焼き払って跡形も残っていない。
そう言ったと思うが」
「ああ、聞いた」
「なら」
「それでも……雪があの地を覆ってしまう前に。
全て、埋められてしまう前に」
少しで良いから帰りたかった。
黒鷹と二人で過ごしたあの場所に。
あれから……黒鷹や白梟がいなくなり、俺達が箱庭のシステムから開放されてから季節は廻り、再び冬が訪れようとしている。
行く宛ても無く、何とはなしにあのまま彩にいて、王城で銀朱の補佐という形で仕事らしきものをする日々が続いていた。
不満を感じているわけではない。
花白や銀朱、時には銀朱の部下や身内の人々と他愛も無い話をしたり、仕事をこなしていくのはそれなりに楽しかったし、今までは大勢の人間と関わる機会も少なかったから、新鮮な気分もして悪くは無い。
だが、どうにも据わりが悪いというのか、落ち着かないというか。
自分の中で何かが欠けているような、中途半端な感じがしているのを拭えなかった。
あの時に起きたことが突然すぎて、事の成り行きを理性ではわかっているつもりでも、感情の方が追いついていないのかも知れない。
せめて、何らかの形でそれを認められるものを得られるのなら得たかった。
黒鷹が確かにいたという証が欲しいのかも知れない。
もしかしたら、形見になるようなものが何かあの場所に残っているのではないかと。
今の時期を逃せば、雪が降りあの地も覆われてしまうだろう。
もしも、何かが残っていたとしても探すことが困難になる。
かといって、来年まで待つことになれば、雪が解けることで水に浸され、物が朽ちてしまうかもしれない。
行くのであれば、今しかなかった。
「…………」
「村を通らずにあそこまで行ける道を知っている。
少し遠回りにはなるが……それなら、村の人間とも顔を合わせる事にはならないから、面倒事は避けられると思う。
あんたに迷惑はかけん。頼む」
「馬鹿者。いきなり長期休暇を言い出すこと自体が既に迷惑になっているとは思わんのか」
「すまん」
「……行っても、かえって辛い思いをするだけかも知れないぞ。
本当に何も残っていない可能性の方が高い」
何処と無く柔らかくなった口調に気遣いが垣間見える。
だが、俺としてもこの件で折れるつもりは無かった。
「そうかも知れない。だが、どうしても一度行って確かめたいんだ。
あの場所がどうなっているのかを」
しばらくの間、双方無言で視線を合わせていたが、銀朱が一度大きく溜息を吐いたかと思うと、机の引き出しから紙を一枚取り出した。
それに素早く何かを書き付けて判を押し、俺に手渡す。
「これは……」
「一ヵ月半やる。それで自分の気持ちにきっちり整理をつけてこい。
あやふやな状態で仕事をされてもこっちも困るからな」
「隊長」
「言っておくが! 戻って来た時に仕事が山程溜まっている事は精々覚悟しておけ。
一ヵ月半分もひっくるめて思う存分扱き使ってやる」
ぞんざいな物の言い方をしているのは、俺に気にさせないようにとの配慮なんだろう。
目元が薄っすらと赤く染まっているのは、多分照れによるものだ。
「ああ。……感謝する」
「ふん。そんなものせんでいい。
とっとと群にでも、何処にでも行け。……玄冬」
「うん?」
呼びかけられたから続く言葉を待っていたが、銀朱は中々その先の言葉を口にしなかった。
ややあって躊躇いがちに言葉を紡ぐ。
「……あの時、お前の家を焼き払うように命を下したのは俺だ。
恨むなら恨め。だが、謝ることは出来ん。
判断を間違っていたとは思わんからな」
「恨みになど思っていない。
あんたはそれが仕事だったんだ。仕方がない」
実際、家が残っていないと聞いた時には残念だとは思ったが、だからといってこいつを恨む筋合いもない。
『玄冬』と『黒の鳥』、世界の滅びを象徴する二人がいた家だ。
一度発覚したのなら、たとえ銀朱がその時に命を下さなかったのだとしても、感情の昂ぶった村の人間等が焼き払った可能性だって十分に考えられる。
……気にしていたのか、もしかして。
「へぇ、玄冬群に行くんだ」
そんな風に当時のことを何とはなしに思い出していたら、唐突に聞こえた声。
後ろを振り向くと、何時からいたのか、花白が其処に立っていた。
「……お前、何時からいたんだ」
「結構前からいたよ。二人で熱中して話していたから気付かなかったんでしょ。
玄冬が群に行くんなら、僕も一緒について行こうかな。
久しぶりにあの辺行って見たいし」
「待て、貴様まで何を言い出……」
怒鳴りかけた銀朱を制して、花白に向き直る。
「悪いな、花白。今回は一人で行きたい」
「え……」
あの家に花白は何度も来ていたから家の造りは憶えているだろうし、それなら一緒に探し物をしたり、片付けた方が効率がいいだろう事はわかっている。
だが、何となく。他の誰の手も入れたくなかった。
たとえ相手が花白でも。
「村は避けて通るつもりだが、万が一にも村の人間に見つかると面倒なことになる。
お前も顔を憶えられているだろうからな」
「あ……」
鈴音の件を含ませた言葉なのを、読み取ったんだろう。
花白の顔が一瞬にして曇った。
「すまん」
きつい言葉にはならない様に、だけど有無を言わせない勢いでそう言うと、花白はしばらく考えあぐねていたようだったが、やがて頷いた。
「わかったよ。……君がそう言うなら」
「ああ。留守を頼むな」
「ん……いつ発つの?」
「明朝にでも。
用意するほどの物もないし、そもそも持っていく物は限られているからな」
大体、彩に来た時点で身一つだった。
僅かな身の回りの物以外は必要ない。
食料は先々で調達すれば済む。
「そっか。気をつけてね」
「ああ」
出立する前に、今日のうちに片付けられる仕事は片付けなければならない。
用件も済んだところで部屋を出ようとし、扉に手を掛けたところで花白に呼び止められた。
「玄冬」
「うん?」
「その……戻って、くるよね?」
「花白」
「群に行った後、またこっちに戻ってくるよね?
そのままいなくなったりなんて……しないよね?」
「…………ああ」
短い返事だけして、部屋を出る。
答えは返したものの、自分でもどうするつもりなのかは、正直なところわからなかった。
何も残っていないのかも知れない。
群に戻っても、二度と帰らない日々を思って沈むだけかも知れない。
でも何かが。何かが欲しかった。
確かに黒鷹と一緒にいたのだと、俺があいつと過ごした日々はあったことを確認したかった。
あまりにいなくなったのが唐突だったから。
あいつが何も残さずに行ってしまったから。
あれ以来、時折これは夢なのではないかという感覚を拭えないでいる。
季節は確かに廻っているのに、再び冬が目の前まで訪れているというのに、今でも、実感が出来なかった。
黒鷹が居なくなってしまったことを。
俺は多分、何処かで認められてはいない。
***
彩を出て十日余り。
茨を経由して、ようやく群に辿り着いた。
村や町に入ってしまうと方向感覚が怪しくなるので、極力避けていたら予想以上に時間が掛かってしまった。
ようやく記憶に残る景色が見られてほっとする。
この様子だと、早ければ今日のうちにかつての家の場所まで行ける筈だ。
紅葉の季節は終わりがけで、地面には無数に葉が落ちて散らばっている。
枯葉を踏む度に、足元で軽やかな音がする。
そういえば、いつもこの季節になると黒鷹がよく枯葉をわざと鳴らして遊んでいたっけな。
***
「とう!」
黒鷹が掛け声と共に、威勢良く枯葉の密集している辺りを駆けて行く。
それに合わせてガサガサガサッと音が黒鷹の後についていった。
偶に村に行った時に子どもがよくやっているのは見るが、大人がやっているところなど、幼い子どもに付き合っているような親を除くと、こいつくらいしか見た試しがない。
「お前、幾つだ。子どもじゃあるまいし」
「いいじゃないか、今の時期しか出来ないことを楽しむくらい。
どうせ君しか見ていないんだから。
玄冬だって昔はよく一緒にやってくれただろうに」
「昔は、な」
「含みのある言い方をするなぁ。私は昨日の事の様に憶えているよ。
ああ、散っていく紅葉に目を輝かせて、落ちた葉っぱを踏んで歩く君の可愛かったことと言ったら……」
「何年前の話をしているんだ。……ったく」
思い出話を出されるとどうにもむず痒い。
親というのはどうしてこう憶えていなくていい事まで憶えてしまっているのやら。
「幾つになったって遊び心というのは必要さ。人生を楽しむスパイスだよ。
君は少しばかり真面目に育ちすぎてしまったね。
うーん、おかしいなぁ、どこでそんな風になってしまったやら」
「……お前がそんなんだから、こうなったんだと思うが?」
反面教師。そんな言葉が頭をよぎる。
口には出さなかったが、黒鷹は俺が何を考えているのか察したんだろう。
駆けた時にずれた帽子を直しながら苦笑いしている。
「痛いところをつくね」
「痛いと思うなら止めたらどうだ」
「ハハハハハ! それは断る。
どうせなら一緒に楽しもうじゃないか。ほら、来たまえよ!」
「ああ、もう! 腕を引っ張るな!
今日は茸狩りに来たんだぞ、本来の目的を解っているのか?
ちゃんと採取するのも忘れるなよ!」
***
今にして思えば、あれは必要以上に茸や山菜等を採らせない策だったような気がしないでもない。
肉の確保の為に動物を狩りに行く時には、常に真剣そのものという具合で遊ぶようなことなんてほとんどした記憶がないのだから。
でも……二人で何気ない会話をしながら、狩りをしたり、散策をしたりというのは楽しかった。
時には一人で狩りをすることもあったし、そういう時は作業がはかどって、収穫が多かったりしていたのも確かだが、つまらないと思っていたのも確かだ。
次はまた黒鷹と来よう。そんなことを考えるのが常だった。
二人でいる事が当たり前の日常で……それが黒鷹が居なくなる形で終わるなんて、あの時の俺は思っていなかった。
***
「もうすぐ……のはずだな」
馴染みのある小川まで辿り着き、軽く休憩をいれることにした。
手袋を外し、澄んだ川の水を手で掬って一口含む。
懐かしい味がする。
水の味は場所によって結構違うものなのだと、彩で過ごすようになって初めて気がついた。
考えてみれば、俺は群から出たことはほとんどなく、他の土地をあまり知らない。
だからだろうか、この地を随分と懐かしく思うのは。
自分の居場所なのだと強く感じる。
この辺りは幼い頃の遊び場の一つだった。
この川で溺れたこともあったっけな。
その後しばらく近寄れず、成長してから訪れたら思っていたよりも小さな川で驚いた憶えもある。
次々と溢れてくる記憶は気持ちを逸らせる。
結局、休憩もそこそこにその場を離れ、家の在ったはずの方角に向かった。
かつてなら、この辺りから見え始めていた家の屋根が見えない。
近づくにつれ自然と急ぎ足になり、終いには駆け出した。
目に映った光景に、覚悟はしていたもののしばし絶句する。
本当に……家は焼け落ちてしまっていた。
おぼろげにでも形を残している部分があるんじゃないかと思っていたが、見えている範囲では殆どが炭だ。
触れてしまえば簡単に崩れてしまいそうで手を伸ばすのも躊躇われる。
何か、形見になるようなものでもあればと思ったのに。
いや、探したら燃えずに残っているものの一つや二つくらいはあるんじゃないだろうか。
「手間が……かかりそうだな」
誰に言うでもなく、一人そう呟いた。
今日はもう日が落ちかけている。
暗くなり始めた場所を隈なく探していくには厳しい。
早々に休んで、朝から作業を始めよう。
気温の下がり始めた季節だが、しっかり着込んでいるし、毛布は荷物の中にある。
さらに寝袋に包まっている状態なら野宿でも大丈夫だろう。
このくらいで風邪をひくとも思えない。
一年前なら目の前にあったはずの家と温もりを思うと、少し胸が痛んだが深く考えないことにした。
***
「……またお前は……!
いつの間に俺のベッドに入ってきたんだ、黒鷹。おい、起きろ」
黒鷹は割と寒がりだった。
群は涼しい土地で夏は過ごしやすくて良かったが、その分冬の冷え込みも相当なもので、冬場はよく人のベッドに潜り込んで来ていた。
「ん……ああ、おはよう玄冬。
いやあ、明け方どうにも寒くてねぇ。
暖炉に火をくべようかと思ったんだが、薪が切れてしまっていて。
外に取りに行くのは寒いなとついつい手近な所で暖を取った次第というわけだ。
うん、やはり温まるには人の体温が一番だな」
「ったく……おい。しがみ付くな。
俺まで起きられないだろうが。もう朝だぞ」
「あと五分……いや十分。温まらせておいてくれたまえよ」
「……少しだけ、だからな」
俺も大概甘い。
黒鷹の癖のある髪を撫でて、あいつが嬉しそうに笑うと、少しの間温まって一緒にまどろむくらいは、まぁいいかという気分にさせられてしまっていた。
***
「……ゆ……め?」
木に寄りかかったまま、少し眠ってしまっていたらしい。
背に感じた温もりは単に自分の体温が木に移っていた分だろう。
見ていた夢の所為か、不意に懐かしい黒鷹の温もりを思い出す。
本人曰く鳥だから、というところから来ているのかどうかはわからないが、俺よりも少し体温が高かった。
しかも、寝ているときにぎゅっと抱きしめる癖まであったものだから、小さい頃は暑くて重い、とよく不満を言ったような気もする。
最後に腕に残っていたあいつの体温は、出血の所為でいつもよりも低く、抱きかかえて少しでも傷を回復させようと、治癒の力を送り込みながらも、酷く不安に駆られていたのを思い出す。
「黒鷹……」
名前を呼んでも返事はない。
黒鷹が居なくなって、初めて気付いたことがある。
俺は自分が居なくなったら、ということは繰り返し考えたことはあった。
自分が『玄冬』だということを知ってから。
だが、その逆は。
「何で……だろうな」
黒鷹が俺から離れるあの瞬間まで、考えたことさえなかったんだ。
俺よりも先に黒鷹が居なくなるということを。
あまりにも傍にいるのが当たり前過ぎて、想定を全くしていなかった。
愚かなことに。
そして、今でも。
羽音がするとつい空を見上げてしまう。
あいつじゃないとわかっているはずなのに、黒鷹の姿を確認しようとしてしまう自分に苦笑する。
視界に入ったただの鳥の姿に失望することを何度繰り返したことか。
「黒……鷹」
もう逢えないことは嘘だと思いたい。
確実に月日は流れているというのに、認めきれずにいる。
焼け落ちた家を前にしてもなお、長い夢から醒められていない。
そんな気分だった。
***
嗚呼、流れた時間は返らない。
あの時の行動が間違っていたとも思っていない。
生きたいと願った君。
願ってくれたことも、それを叶えてあげられたことも本当に嬉しい。
最初の君が世界の存続、そしてその為に自分の死を選んでしまったことはとても哀しく、繰り返したくはなかったから。
だけど。
私は君にそんな顔をさせたかったわけではないのだよ。
……玄冬。
あの子は今の自分がどんな顔をしているのか、自覚がないのだろうか。……ないんだろうな。
ねぇどうしたら、君は。
***
かつての家の所まで来てから三日目。
今日も朝から先ほどまで、ずっとあちこち燃えずに残っているものを探し回っていたが、探れば探るほど隅々まで焼き尽くされたというのを思い知らされる。
中々原型を留めている物を見つけることは出来なかった。
「……俺も何をやっているんだろうな」
何か特定の物に対しての執着はずっと薄かった自覚はある。
『玄冬』として、世界を存続させる為に、何れは静かに死を迎えるものだと思っていたからだ。
だから、黒鷹がいなくなったからといって、こうやって必死で当時の面影を追う自分がよくわからない。
なのに、捜索の手を緩めることも出来なかった。
日が落ちて辺りが見えなくなるまではずっと探し続けてしまう。
松明をつければもう少し探せるかも知れないが、それでも見える範囲には限度があるし、何よりもしも何かの拍子に火を移してしまい、更に燃やしてしまうようなことにでもなったらそれこそ困る。
まだ日にちに余裕はあるし、慌てる必要もない。
彩に戻るなら、の話だが。
「……今日はここまで、か」
区切りをつけて、すっかり定位置となった木の根元に腰を下ろす。
場所の所為もあるだろうが、一人こうしているとどうしても黒鷹の事ばかり思い出す。
ここにいたらそのうちあいつが戻ってくるんじゃないかと、そんな考えまで浮かぶ。
未練がましい自覚はある。
だからこそ、それを断ち切る為にここに来た筈なのに、何が悪いのか次々に浮かんでくる思考は何処までも過去のことばかりだ。
「くそ……お前の所為だぞ」
しれっとした顔で肝心な事に触れずにいるのは昔からだが、最後の最後まであんな風だったから。
まだ何かあるんじゃないかと、考えてしまう。
そして、思い知らされているんだ。
俺の中でどれ程黒鷹の存在が位置を占めていたのか、ということを。
***
「ほんの少しだけ、お力を貸していただけませんかね、主よ」
昏い空間は全てから隔絶されたかの様に其処にある。
その中で時折光る小さな珠は仄かに存在を主張していたが、珠に映る愛し子は時折消えてしまいそうな儚い表情をする。
いてもたってもいられなかった。
「……今更、か? こうなる形を選択したのはお前ではなかったか?」
「ええ、わかっておりますよ。
ですが、あの子は自分の限界に気付かない、自身に対しての感覚に疎い部分がありましてね。
このままでは潰れてしまいかねない」
根は強い子だと思っている。
一度乗り越えてしまえば吹っ切れるだろう。
だが、今のままではどうにも危なっかしい。
若輩君や花白は恐らくその点に気付いてくれているのだと思うが……肝心の玄冬があれではな。
少しばかり、やり方が拙かったかも知れない。
最後の姿は見せまいとああいう形を取ったが、だからこそ納得出来ていない面があるのだろう、恐らくは。
「お前が行けば変わるとでも? 大した自信だな。
言っておくが、力を貸したところで精々半日あの地にいられるかどうかだろう。
更に言うなら、かろうじてここに留まっている思念もそれ以上保つことは出来ぬぞ」
「構いませんよ。元々今の思念も些細なものだ。
どのみち時間が経てば消えるのでしょう?
それなら、残されている力はあの子の為に使いたい。
半日もあれば十分です。
……いえ、寧ろ長くなってしまっては意味も無い。
私はあの世界にもういないのだと、あの子にしっかり認識させなくてはいけませんから」
元より、消えるはずだったものがほんの少し残っていただけのことだ。
今更躊躇う理由は何もない。
「……過保護だな」
「ハハハ、申し訳ありません。可愛くてつい」
わかっている。見ていられないのは私だ。
昔から素直で聞き分けのいい子だった。
だから高を括っていた部分もあるのかも知れない。
別れの間際、玄冬があんな風に感情を……私に対しての執着を曝け出すとは思わなかった。
嬉しくもあったが、動揺もした。恐れた。
あの瞬間に私は初めて気がついたのだ。
あの子は自分が死ぬことは想定していても、私が先に逝くことは全く考えていなかったんだろうということに。
だが、あの子にそういう風に思わせていた原因の一端はやはり自分にある。
ならば、その点だけでも責任を果たしたかった。
本当に最後の役目として。
「惚気はいらぬ。
……もしも、お前が行っても変わらなかったらどうする気だ」
「有り得ませんよ。あの子は私の自慢の息子ですから。
必ず乗り越えてくれるはずだと信じています」
「言ってくれる。……まぁ、よかろう。行け」
「……感謝いたします、主」
「ふん」
力を受けながら、懐かしい地、懐かしい顔を思い浮かべる。
嗚呼、私も大概未練がましいな。
***
「……玄冬、玄冬。せめて焚火くらいして身体を温めたまえ。
今の君は前みたいに回復能力が働くわけじゃないのだから、このまま眠ることを繰り返していては風邪をひいてしまうよ」
「……このくらいまだ平……気っ……!?」
朧げな意識の中で聞こえた馴染みのある声。
何気なく応じかけたところで違和感に気付く。
慌てて身体を起こして目を開けた。
「黒た……か……?」
まさかの相手がそこに居た。以前と同じようにごく自然に。
咄嗟に触れて確認しようとしたが、伸ばした手は黒鷹をすり抜けて空を掴むだけ。
黒鷹がその様子に苦笑いする。
「残念だが、今の私は思念の残滓みたいなものだからな。
触れることは出来ないよ。君以外に視えるかどうかも怪しいものだ」
まぁ、ここには君しかいないから差し支えもないが、と笑いながら言う黒鷹にただ呆然としてしまう。
「本当に……お前……なのか」
「実体はないけれど、ね。
正真正銘、君の養い親だった黒鷹だよ……違うとは言わないだろう?
君にわからないわけはない」
そう、わからないわけがない。
黒鷹以外の何者でもないのがわかるから……だが、それだけに色々戸惑ってもいる。
自分でも正体のわからない理不尽な感情。
……それを多少ぶつけるくらいは許されるような気がする。
「……少しそこの木の前に立て」
「うん? 何だね?」
「いいから、立て」
「ふむ、これでいいかい?」
「ああ。……動くなよ」
一つ深呼吸をして、黒鷹のいる場所に向かって拳を振り上げ、突き出した。
ギシ、と威勢良く木が軋んだ音に、内心で八つ当たりをした木に詫びる。
本当にぶつけたかった相手には触れられないから、こうする他なかったのだが。
「……驚くじゃないか。何をするんだい」
「…………れは…………っち……の」
「……何だって?」
「それはこっちの台詞だ、馬鹿!
勝手に自分だけ納得して、勝手に居なくなって……」
「玄冬」
「何も残しもしないで…………まともな別れ方一つ……させてくれなかったのは、何処の……誰だと……っ!」
誰より逢いたかった相手なのに、正面から見られない。
自分の顔を上げられない。
張り詰めている何かが切れてしまいそうだ。
他に言いたいことだって沢山あるというのに。
「……やれやれ、困った子だな」
「だから、誰の所為でこん……なっ……!?」
不意に包まれた温もりに声が出なくなる。
俺の背に回された手があやすように優しく叩く。
つい先ほど触れられない、って……言った……はずなのに。
「……夢だよ。僅かな時間だけの夢だ。
触れられるようになったところで、もう一発叩き込んでみるかい?
ああ、加減はしてもらいたいけれども。
知っているだろうが、私は痛いのは嫌いだからね。
君に本気を出されると流石にたまらない」
「…………っ…………く……そっ……!」
振り上げかけた拳をそのまま黒鷹の背に回し、肩口に顔を埋めた。
「夢……なのか?」
「……玄冬」
「なぁ、黒鷹。何が夢だ? 何が本当なんだ?
……わからない……っ……何が……現実の……」
こんなに伝わる体温は確かなのに。
「……君はこの世界に今も生きていて、私はもうこの世界に本来ならば存在していない。それが現実だよ」
「嘘だ…………っ」
「玄冬」
「…………そ……だっ……」
それでも理屈ではなく、直感的にわかってしまっている。
こうして抱いてくれているのは、黒鷹であって、黒鷹ではないものなのだということを。
気がついているのに、認めたくない。
それでも逢えた事が嬉しいのか、現実を突きつけられて哀しいのか、認められなくて苦しいのか、解った事でで楽になれたのか、自分でもよくわからない。
混乱して何も言えなくなった俺を黒鷹はただ黙って抱きしめて、髪を撫でてくれていた。
子どもの時の、ように。
***
「彩で居心地が悪いわけじゃない。
……ただ……どうしても違和感が拭えなかったんだ。あの場所に」
焚火をして、燃えさかる炎を見つめながら、この数ヶ月のことを黒鷹に話していた。
後ろから抱きしめられて、二人で毛布を被るような体勢だ。
小さい時に絵本を読み聞かせて貰った頃、よくこんな風になっていたことを思い出す。
黒鷹の膝の間に身体を納めて、背を黒鷹の身体に預けるようにしていたあの頃。
まだ俺の頭は黒鷹の胸に届くくらいだったと思う。
今では俺の方が黒鷹よりも背が高いから、少し納まりは悪いが、この格好は何となく落ち着く。
三つ子の魂百まで、とはこういうことを言うんだろうか。
「ふむ……まぁ、彩自体が君に合わないということはないと思うよ。
何せ、君の生まれ故郷だからな、あそこは」
「そう……なのか」
「ああ。君が生まれて直ぐに群に連れて来たから、ほとんど居なかったと言えばそれまでの話ではあるけれどもね」
確かに。そうと聞いたところでほとんど他人事のような話だ。
物心ついた時からの記憶にある場所は、ほぼこの周辺に固まっている。
「で。違和感でどうにもならなくなって、家は焼き払われていると聞いているにも関わらず、わざわざ休みを貰ってここまで来たのかい?」
「…………」
「やれやれ……少し冷静になれば、君ならわかるだろうに。
これだけ焼かれてしまっているのを見たら、探すだけ無駄だって事ぐらい」
「……なんで無駄だって決め付ける」
「うん?」
「わからないだろうが。
探してもいないうちにどうして無駄だって思うんだ」
「…………玄冬、君」
声を荒げてしまっていることに気付いても、抑える事が出来なかった。
「だって、お前は! 何も残していかなかったじゃないか。
居なくなったのも唐突で!
……何か残っているかも知れないのに、探さないでいられるか」
「悪かった。別に責めたわけじゃない。……やっぱり拙かったかな」
「……うん?」
最後の言葉は囁くような呟きだったのと、拙かった、が何処に掛かる言葉なのかがわからず、つい首を傾げてしまう。
「ああ、いやこっちの話だ。
玄冬。じゃあ、仮に探し続けて何かを見つけたのなら。
君はどうするつもりだったんだい?」
「……手元に置いて……おこうかと」
「形見のつもりに?」
「ああ」
「……では、もう一つ。
見つけられなかった時にはどうするつもりだった?」
「それ……は」
「もしかして君、彩には戻らずにこのまま此処でまた過ごしていこう、とでも思っていたんじゃないのかね?」
返す言葉を失った。
……図星、だったからだ。
もし、何も見つからなくてもこの場所は黒鷹と過ごした思い出が詰まっている。
この光景を眺めて過ごしていけるのなら、悪くは無いと何処かで思い始めていた。
いや、見つかったとしても彩に戻る気になれるかどうか。
後ろから抱きしめてくれている黒鷹の腕に力が籠められる。
「過去に縋り付いていても何もいいことはないよ、玄冬。
君が苦しくなってしまうだけだ」
「……お前の存在を感じられなくなってしまうよりはましだ」
「玄冬」
「ここにいたら、お前の居た証が幾らでもある。
だけど、彩は……違う。あそこじゃ……無理なんだ、黒鷹。
お前の気配があそこには何も無い」
「…………」
「お前は……自分達が消えて、箱庭の機能が停止し、俺たちの世界になることを良かったと思うようになると言った。
だが、俺の世界には常にお前がいたのに……どうして、それが急に消えて良かったと思えるようになると思う?」
過去に縋り付いていてもいいことはない、そんな言い分がわからないわけじゃない。
だからといって、他にどうしていいのかもわからない。
彩で日々を過ごしていっても、常に何をしているのだろうという疑問が浮かんでいた。
ぼんやりと過ごす中、何が俺に残るのか。
『玄冬』で無くなった今、俺が生きていく目的は何だろう。
「…………参ったな。
君が小さい頃は親離れの早い子だとこっそり嘆いていたくらいなのに。
いや、やっぱりやり方が拙かったということなんだろうな、これは」
溜息交じりの苦笑い。
続いて、身体に巻きついていた腕がするりと離れる。
慌てて、後ろを振り返ったら、そのまま再び、今度は正面から抱きしめられた。
「私がいた証……か。あえて探さずとも、ちゃんとあると思うがね」
「何があ……」
言葉を続けようとしたところを手を翳されて、止められる。
黄金色の目が優しく笑みの形を取っていた。
「私がいた証は君自身だよ、玄冬」
「……お……れ?」
「ああ。だってそうだろう?
君の世界に常に私が居たのなら、君がこの世界に在ることはそのまま私がいた証じゃないか。
……君をそこまで大きくしたのは誰だと思っているんだい?」
頭を撫でられて、咄嗟に言葉が出なかった。
俺自身が……黒鷹のいた証だと言われてもピンと来ない。
言いたいことはわかるが、上手く自分の中で消化しきれない感がある、といったところだろうか。
どう話を繋いだものかと戸惑っていると、察したんだろう。
黒鷹が小さく笑った。
そして、俺の背後を指差す。
「まだ納得できないか。……仕方ないね。
あの辺り……私の寝室のベッドがあった辺りの場所はわかるかね?」
「ああ」
これでも長年過ごしていた場所だ。
原型を止めていなくても、かつての自分の部屋がどの辺だったか、黒鷹の部屋がどの辺だったか等、部屋の配置は一通りわかる。
「床下に埋めていた箱がある。
それなりの深さにしていたし、煉瓦で遮ってもいたから、恐らくは燃えていないはずだ。
どうしても、何か目に見える何かが欲しいと思うのなら、その箱を開けてみるといい」
「黒鷹」
そんなものがあったのか。先に言ってくれてもいいのに。
ぼやいたら、少し拗ねたような表情になった。
「……本当はあまり見て欲しくないものなんだよ。恥ずかしいから」
「何なんだ、それは」
「自分の目で確かめたまえ。言わせないでくれ。……だが」
「うん?」
「それを確かめたのなら。二度とここに来るような事はやめなさい」
「な……」
柔らかい口調ではあるけれど、拒絶の意味を含めた言葉に絶句する。
が、黒鷹が本気で言っているのは目で解る。
俺に向けられた眼差しは真剣そのものだった。
「君が歩いていくのは未来だ。過去じゃない。
時折振り返って懐かしむこともするなとは言わないよ。
だが、ここはもう君の居るべき場所ではないんだ。
帰ってくる場所はここではない」
「黒鷹」
「君がこの先、生きていく場所はここではないんだよ、玄冬」
「…………」
「ここに居る限り、君は私を意識から切り離すことが出来ないだろう? きっと何をしていいのかもわからないままだ。
それでは以前とあまり変わらない」
困った様に笑う顔が胸に痛い。
「私はあの時の行動に後悔はしていない。
……だが、別れ方をしくじった、くらいは思っているよ。だから」
こつん、と額が合わされて。語りかける声音が一層優しくなる。
「私の残像だけを追ってしまっている君を放ってはおけなかった。正面から別れなければ、歪んだ形で後を引いてしまうのだと。
……あの人の時にもわかっていたはずなのに、私はつい繰り返してしまっていたんだ」
「……白梟、か」
あの時のやりとりを思い出す。
白梟が塔を離れている間に黒鷹と白梟の主はこの地を去ったと言っていた。
白梟も主と共にこの地を離れる可能性を考えてそれを言えずにいた、と。
「ああ。先の白梟の行動を追い詰めてしまった一端はそこにもある。
なのに、私ときたら。君が生きたいと願ってくれたのが本当に嬉しくて。
引き止められることを恐れたのもある。
最終的には無理矢理決着をつける形にした面があったのは拙かったかと思ったよ……君がずっと沈んでいるところを見ていたらね」
「黒鷹……」
「他にやりようもなかったけどもな、あの時は。あれで精一杯だった」
「……真っ青な顔をしていた癖に、俺の前では痛いの一言も言わなかったよな、お前は」
肝心な事は言わない。いつもそうだ。
今更ぼやくのも馬鹿馬鹿しいけれど。余計な所で虚勢を張る。
「そりゃあ、お父さんとしては息子に格好悪いところは見せたくないからね」
「散々人の格好悪いところは見ているくせに。
というか、それまでに格好悪い部分がまるっきり無かったとでも思っているのか、まさか?」
「いや、そりゃ息子の格好悪いところは良いんだよ……って……格好悪い部分が有ったと言いたいのかい、君は」
「お前が二十二年分の俺を知っているように、俺もお前の二十二年分を知っているからな。
……聞きたいか? 格好悪い部分を語れと言われたら、色々あるが?」
「いや、遠慮させて貰おう。せっかくの想い出は美しく……」
「ならないな。……考えれば考えるほど」
「……ふふ、違いないね」
どちらからともなく、笑いが零れ、しばらく二人でひたすら笑っていた。
そうしたら、何時の間にか空が明るくなり始めている。
日が昇り始めて、黒鷹の輪郭が淡くなって来ていることに気が付いた。
黒鷹がそっと俺から離れた。
「そろそろ限界だな。一夜の夢の終わりだ。
君は君の居るべき場所に戻らなければ」
「……黒鷹」
「身体にはくれぐれも気をつけなさい。
もう、以前のように何でも直ぐに治ってくれるのとはわけが違うんだ。
自分自身を気遣うということを憶えてくれたまえ。……どうか、元気で」
「黒鷹」
「うん?」
一瞬だけ迷ったが、言うなら今しかない。
伝えられる機会は今を逃せば永遠に失う。
「一回しか言わない。困らせることも……解っていて言う。
俺はお前と一緒に……生きたかった」
「……玄冬」
「一緒に生きたかったんだ」
この場所で変わらずに。
黒鷹と日々過ごして、時々花白が遊びに来る。
……そんな風に生きていきたかった。
叶えられない願いと知っていても。
「……親は子どもより先に逝くものだと相場が決まっているんだよ、玄冬。
君を先に逝かせるようなことにならなくて良かったと思ってるさ」
頬に触れてくれる手はまだ温かいのに。
「急がなくてもいい。慌てなくていいから……ゆっくりと自分と周りを見渡しなさい。
自分で無理だと思ってしまったら、そこで終わってしまうよ。
君だってよく言っていたじゃないか」
「……ん?」
「ほら、『最初から野菜を食わないと決めてるから食うつもりもないんだろう』と。
決めてしまっていたから、進歩もなく、日々論争が続いていたじゃないか」
「……つまり、お前は本当にまともに野菜を食う気がさらさらなかったということなんだな」
「ああ、いや、その、言いたいのはそういうことではなくて、えーと……」
しどろもどろになった様子に少しだけ笑った。
ああ、そうか。
肝心な部分で誤魔化してしまおうとするのは俺も同じか。
嫌な部分で似たんだな、俺達は。
「……馬鹿。わかっている。それとこれとは別の話だけどな」
自分の頬にある手に、自分の手も重ねる。
本当は黒鷹に手を伸ばしたかったけれど、それは押し止めた。
多分、辛くなってしまう。
だから、黒鷹も俺から離れたんだろう。
「……有り難う。少しでも逢えて嬉しかった」
「私もだよ。……玄冬」
「……うん?」
「――………………。………………よ」
耳元に囁きが落ちたと思った次の瞬間。
朝日に溶け込むように黒鷹の姿が静かに掻き消えた。
穏やかな笑みと一緒に。
「……黒……鷹」
頬にあった手の感触を想い、最後の言葉を脳裏で反芻する。
――有り難う。君に逢えて……一緒に過ごせて良かったよ。
……黒鷹。
お前が俺の鳥で……俺が『玄冬』で、お前が『黒の鳥』で本当に良かった。
……お前と一緒に過ごせて良かったよ。
***
「これ……か」
見当をつけた所を堀り始めてどれだけの時間が経っただろうか。
コツン、と何かにぶつかる感触に慎重にその周囲の土を選り分けていく。
間もなく、煉瓦で覆われた部分が顔を覗かせた。
煉瓦を取り除いていくと、やがて白い箱が視界に入る。
黒鷹の言っていたとおり、燃えずに無事に残っていてくれたようだ。
そっとそれを土中から取り出し、蓋を開けてみる。
中から現れたのは、数冊の本のようなもの。
その中の一冊を適当に抜き出し、頁を捲ってみると馴染みのある文字が綴られている。
『ようやく最近、笑うということを憶えたらしい。少しばかり表情が乏しい気がしていたが、無用の心配というやつだったようだ。……子どもの笑顔と寝顔には敵わないとしみじみ思う』
まさか……黒鷹の日記?
何時の物だろう。別の冊子も開いて、軽く目を通して見る。
どうやら、俺を育て始めてからの物らしい。どれもこれも。
気恥ずかしさと怖いもの見たさが葛藤する。
――本当はあまり見て欲しくないものなんだよ。恥ずかしいから。
あんなことを言っていた意味がわかった。
俺が逆の立場ならやはり同じ事を思っただろう。
日記なんて、元来人に見せるために書いていたものではないだろうし、そもそも多少のことでは見つけられないように、床下に埋めていたような代物だ。
誰かに、まして俺に見られることなんて、欠片も想定していなかっただろう。
でも、今は……やはり読んでみたい。
俺を育てている時の黒鷹が何を考え、どうしていたのかを。
日記の存在を教えてくれたということは、俺が読む分には構わないはずだ。
中身を手早く確認して、年代順に並べ、古い順に全部読んでいくことに決めた。
***
本を読むのが好きだった黒鷹に影響されて、俺も結構色々と読むのが好きだ。
だから、読むという行為には慣れているはずだが、それでも全部を読むのには丸一週間を費やした。
流石に二十二年分は伊達ではない。
日記なんて三日坊主になりそうな気質だろうと思っていただけに、一日と欠かさずつけていたというのは意外だった。
とにかく無我夢中で読み進めた。
時に笑い、時に苦笑を零し、時には羞恥に苛まれ、時には……温かさに泣きたくなった。
やっとこれが最後の一冊。去年の冬の始まりの時期が記されていた。
『時期が近づいているのをひしひしと感じる。
あの子にも当然解っているだろう。どんな選択をするだろう。
あの子が選ぶ道はどうなるだろう。
私はどんな結末に進むことになっても、あの子の望むとおりにするつもりだ。
だけど。
……私は一度、既にあの子を死なせてしまっている。
また、失うことになったら辛い。
あの廻り逢える日を、ただ待ち続ける長い時間は正直なところもう遠慮したい。
だから、玄冬が。
この世界で生きていきたいと思うようになってくれることを願ってやまない』
日記はそこで終わっていた。
後ろの頁をパラパラと捲ってみても白紙が続いている。
が、最終頁近くに何か挟まっているのを見つけた。
取り出して見ると一通の手紙らしきもの。
封筒の表には短く『我が子へ』とだけある。
日記に挟まっていたことと、書いている字を考えても俺に宛てているのは明白だった。
日記は本当に人に読ませる意図は無いように綴られていたが、これは間違いなく俺へのものだ。
震えてしまう指でゆっくりと封を開く。
『親愛なる我が子へ
もしも、万が一にも君がこれを目にすることがあったのだとしたら、恐らくその時、私は君の傍にいない状況なのだろう。
でも、それは君の望みが、ひいては私の望みが叶った結果だと思う。
全ての望みを得ることは出来なかっただろうが、私達は元々がそういう風に出来てしまっている。
悲しむことは無い。
傍に居ることは出来なくても、いつも君が幸せになれることだけを願っている。君の幸せは私の幸せだ。
笑えるようになるには時間が掛かるかも知れない。
慌てなくてもいい。
ゆったりと構えて、いつか生きていてよかったと、『玄冬』から開放されてよかったと、君がそう思ってくれる日が訪れることを願う。
どうせ、最初は君を見送ることになったんだ。
見送られる側になっても、お互い様というやつだろう。
だから、泣くんじゃないよ、玄冬。
君の人生が満たされたものにならんことを』
「……っ……何が……お互い様……だっ」
公平なんかじゃない。
俺の世界が黒鷹がいて成り立っていたように、黒鷹の世界は俺がいて成り立っていた。
だが、黒鷹の世界は気が遠くなるような年数を経ているのに対して、こっちは二十三年に満たない年数。
前の俺の事は知らないが、仮にそっちを追加してみたとしても、到底並ぶものではない。
――望みが叶うのは私の方だ。
塔で別れた時、最後に黒鷹が呟いたあの言葉と、強引に転移させられ、最後を見届けさせて貰えなかった事で突き放されたような気がしていた。
自分のことで勝手に、と。
そんな風に思ってしまった部分があったことは否めない。
どれ程あいつが俺を想っての事かをわかっていても、だ。
だが、結局。
黒鷹の行動は何もかも、全てが俺の為だった。望みさえも。
勝手なのは俺の方だ。日記を読んでいたって解る。
どれ程あいつが心を砕いて俺に接してくれていたのかを。
その気になれば育て方一つで幾らでもやりようはあっただろう。
あいつは俺に選ぶことが出来るようにしてくれた。
それに。
俺が迷うこともなければ、あいつが出てきてこれらの存在を教えてくれることもなかっただろう。
最後の最後まで、心配させたのは俺だ。
解っていたつもりで解っていなかった。
「く……そっ……」
本当に、不公平だ。
きっとそれさえ、あいつはそんな問題じゃないだろうと笑って言うだろうけれど。
敵わないのが悔しくて、哀しくて。
そして、何処かで。
嬉しくてたまらなかった。
黒鷹に育てて貰ったことが。
きっと死ぬまで、お前を誇りに思う。
***
再び日記を箱に納めて、土中に埋める。
煉瓦なども元通りにし、最初にあったのと同じ状態に戻すことにした。
量の問題ではなく、これらは持ち帰っては駄目だと思った。
他の誰かの目に触れさせることがあっても拙いし、何よりこれらを手元に置いていては俺が駄目になる。
手紙も迷ったが、一緒に埋めた。
……これでいい。
黒鷹の言葉じゃないけど、俺自身があいつの存在していた証だというのなら、俺が全部憶えていれば済む事だ。
この光景も、黒鷹と過ごした日々も、あいつが残してくれた言葉も何もかも。
俺が生きている限り、あいつの残してくれたものは何も消えない。
目に映るものが全てではない。
触れて確認出来るものが無くても、黒鷹がいなかったことになるわけでもない。
大丈夫だ。俺はもう受け入れられる。
――急がなくてもいい。慌てなくていいから……ゆっくりと自分と周りを見渡しなさい。
「……帰るか。彩に」
そうしよう。
まずは、周囲のことに目を向けてみる事から始めよう。
きっと気付けなかったことが色々ある。
花白や銀朱のことも。
叶った望みと叶わなかった望み。
少しずつ考えて、ゆっくりと進んでみることにしよう。
黒鷹の最後の望み、そして、俺の最初の望みを叶える為に。
かつての家に別れを告げて、背を向けて、彩に向かって歩き出した。
きっと、もう羽音がしても黒鷹を探す為に空は見上げない。
いずれ降るだろう雪に色々思い出すだろうけど、それは温かく包まれた記憶だ。
居ない事は哀しいけど、寂しくはない。
2006/11/05 発行
アンソロジー『Elysion ~緑園幻想物語~』寄稿分。
PS版花帰葬での新規EDの「遠く、不断に」による話です。
ホントは一度PS版かPSP版起動して、ちょっと確認してからにしたかったんですが、今諸事情で確認出来ずなので、ほぼ当時のままの文章。
玄冬は自分自身が死ぬことについては考えていても、黒鷹が(少なくとも玄冬が生きている状態で)死ぬということは全然想定してなかったように思うので、そこから来るだろう動揺や脆さを書きたかった話でした。
いきなり、っていうのは覚悟出来ないものです、色々と。
- 2008/01/01 (火) 00:20
- 黒玄