作品
第14話:愛しさの種類
生まれたばかりの我が子の可愛さは喩えようがない。
……と、かつて本に書いてあったことを読んだ時には、そういうものなのかと思っていたが、あれは誇張でも何でもなかったのだと、桜璃を見ていると心底思う。
無我夢中で乳に吸い付く様子も微笑ましいし、不意に目を開けて、黒鷹と同じ色の瞳で、俺をじっと見つめてくるのもたまらなく愛くるしい。
俺が世話をしないと生きられない小さな存在は、確かに少し前まで自分の腹の中に居た、黒鷹との間に生まれた実の娘で。
黒鷹の面影と俺の面影を桜璃に見出すたびに、温かい感情が胸を満たしていく。
そんな我が子に全力で頼られているのは勿論悪い気分はしない。
だが。
「……ふ……ふええ!」
「……あ、もうそんな時間か」
部屋の掃除をしていた手をとめ、慌てて手を洗ってから桜璃の元に行く。
まだ言葉で伝える手段を持たない赤子は、日に数回泣いて俺を呼ぶ。
それは主に空腹による乳の要求だったり、オムツだったりと、桜璃が不快や不安を感じる様々な理由によるものだが、寝て静かになったと思ったら、また起きて。
再び眠りについたと思ったら、また大音量の泣き声と共に起きる。
大人のように数時間続けてぐっすり眠ってくれる、なんてことはない。
起きている桜璃は本当に可愛くて、いつまでもあやしていたいとは思うけど、それとはまた別のところで、もう少し続けて眠っていて欲しいとも思ってしまう。
俺は『玄冬』としての回復能力がある上に、子育て経験は豊富な黒鷹が傍にいるから、恐らく母親としてはかなり楽を出来ている部類に入るはずなのだが、正直時間が足りない。
一体世の母親というのはいつ休んでいるのだろう。
俺にしたって、桜璃が生まれてからというもの、家事はそれまでと比べて全然出来ていないというのに。
桜璃をあやしながら、散らかり始めた居間の状態を見て軽く溜息をつく。
そろそろ、黒鷹の散らかしっぷりについて、とやかく言える立場ではなくなりつつあるな。
「起きたのかい」
黒鷹が桜璃の泣き声に気付いて、居間に来た。
「ああ。多分、乳だと思う。……ほら」
ソファに腰を下ろし、胸元を開けて乳に吸い付かせると、桜璃は泣き止み、凄い勢いで飲み始める。
乳でしか栄養を取っていないのに、ちゃんと日々重くなってきているのを感じる。
黒鷹も俺の隣に座ると、桜璃の頭をそうっと撫でた。愛おしそうに。
その時の表情はあまりにも優しくて、どこか懐かしい。
懐かしさを感じるのは、俺の中にある微かな記憶のせいだろう。
いつかの俺の幼い頃に向けられていたであろう表情ときっと近い。
「ふふ、満足そうに飲んでいるねぇ、桜璃。
やっぱり母親の体温を感じながら飲む方が安心するのかな」
「そうなのかもな。……哺乳瓶だとどうも嫌がるからな、桜璃」
黒鷹は当然ながら、自分で直接乳をやることは出来ないけど、ミルクを飲ませられるなら飲ませたいとのことで、何度か哺乳瓶でミルクをやろうとしたけど、桜璃が嫌がってしまった。
哺乳瓶の中身を、搾乳した俺の乳にしても全然ダメで、飲もうとはしてくれない。
それを黒鷹は随分と残念そうにしている。
「君は最初から素直に哺乳瓶で飲んでくれていたんだけどねぇ……。
嫌がる素振りも全くなかったし。
うーん、やはり血の繋がった親子でも違うものだな」
そう言った黒鷹は複雑な表情だった。
桜璃と俺の違いが嬉しくもあり、寂しくもあり、といったところだろうか。
「俺と違うんだとしたら、お前に似た部分なんじゃないのか、それは」
「う。……だとしたら、嬉しいような切ないような……何とも言いがたいね」
「俺は桜璃が自分と違うという面を聞くと嬉しくもあるがな。……黒鷹」
「うん?」
「よくこんな状態を俺の時に一人でこなしていたな、お前。本当に凄い」
繰り返してきた生と死の全てを覚えているわけではない。
だが、恐らくいつの俺に対しても同じように、黒鷹は育ててくれたはずだ。
それも一人で。
今は、黒鷹と俺の二人で桜璃をこうやって育てているけど、黒鷹が俺を育ててくれた時は、何もかも全部一人でこなしていたのだろうことを考えると頭が下がる思いだ。
俺も最近大分慣れては来たけど、やはり最初はオムツを換えたり、風呂に入れたりというのは黒鷹が上手かった。
その手慣れた様子は間違いなく俺によってのもの。
そして、桜璃の世話を分担出来るから、まだ俺は楽な部分もある。
……解っていたつもりだったけど、どれだけ黒鷹が慈しんで俺を育ててくれたのかを、日々、目の当たりにして実感していた。
「いや、君は多分格別に育てやすい子どもだったんだと、今更ながらに私は思うよ。
今生だけでなく、それこそ初めて育てた君の時からずっとね」
「育てやすい?」
「ああ。哺乳瓶を嫌がらないというのもそうだが、特に人見知りもしなかったし、一度眠ったら、結構な時間目を覚まさなかったからな。
あまりにも長時間ぐっすり寝るものだから、最初の頃は、時々育児書を読んで不安になったぐらいだった。
おかげで君には大分楽をさせて貰ったよ。
桜璃みたいに少し手を焼くのも、それはそれで可愛らしいけどね」
「黒鷹」
「君の時とはまた違うというのが、思っていたよりも新鮮だよ。
繰り返しても君は君で、桜璃は桜璃。どちらも違った可愛いさがたまらないな。
……だからね、玄冬」
「うん?」
黒鷹が桜璃の頭を撫でていた手を引っ込めて、俺の肩を抱いてくる。
「桜璃に妬かなくても、君は君でちゃんと可愛く思っているから」
「…………ちょっと待て。俺は別に妬いてなんて」
「いないかい? 全く?」
言葉に詰まった。
全くか、と言われると……否定しにくい部分はほんの少しあったから。
黒鷹に育てられて、ある成長までしたら抱かれて、とずっと繰り返してきた。
桜璃でもそうならないだろうかと、微かにでも思ったことがないと言ったら……嘘になる。
その考えは自分の浅ましい部分だと自覚はあったから、表に出したつもりなんてなかったけど。
見透かされている、なんて考えもしなかった。
黒鷹が俺の耳元で低く囁く。
「桜璃が可愛いのは、他ならぬ君との子だからだよ。
流石に血を分けた娘に欲情は出来ない。
性的な意味で触れて、抱きたいのは君だけだ」
「ん……っ」
耳に黒鷹の唇が触れて、思わず声を上げた。
幸い、腕の中の桜璃は特に気にした様子もなく、そのまま乳を飲んでいる。
どう言葉を返したものかと戸惑う俺に、黒鷹が続けたのは。
「桜璃がもう少し長く眠ってくれるようになったら、覚悟したまえ。
嫉妬する余裕もないくらいに抱きしめるから。隅々までね」
「……お前、桜璃の前で何てことを」
そんな想像するだけで赤くなるような内容で。
つい、咎めてしまうような口調になりながらも、自分の顔が緩んでしまったのはどうしたものか。
ああ、これだから。
「不都合があるかい? 両親が仲良くする相談に何か問題が?」
俺はいつまで経っても、黒鷹に敵わないんだ。
黒鷹と桜璃。
二人分の温もりがどうしようもなく愛しかった。
- 2013/10/20 (日) 06:49
- 第二部:本編
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